漣(さざなみ)農業日記

農業によせるさざなみから自分を考える

今押し寄せる波は、さざなみなのだろうか、荒波なのだろうか。

地域と調和する農業

    私が若い頃に、就農したての青年たちの尻をたたいて学習した内容を前回紹介しましたが、その後私は、「地域に自分の経営をおいてみる」ということについて、何人かの方々の挑戦を見てきました。次に紹介します。

    まず、以前にも紹介した館山市のSさんの挑戦です。彼は、関東北部で大手ホームセンターの店長をつとめていましたが、考えがあり、両親の住む館山市に帰ってきました。生活の糧をどこに求めるか、地域の農家の手伝いをしながら、今後の人生を考えていました。農家の生まれではなく、特に、農業への思いというものが強かったというわけではありませんでした。農家のビワの作業を手伝いながら、彼はこう言っています。

 最初は、新たな職業としては考えていなかった農業ですが、ビワの作業を始めると自然の中でうぐいすの鳴き声を聞き太陽を浴びながら風を感じて行う摘果や、ビワの袋を果実に一個一個掛ける作業がとても心地よく感じました。
    こんなに気持ちのよい仕事があったんだとその時思いました。(農業は生き方ですより)

 農業に新規参入するとき、理屈から入る人が多い感じがします。例えば「有機農業への挑戦」、「地域活性化への貢献」・・・・などなど。彼の場合は、「(自分の職業として)農業もいいかも」と考え、ここでやる農業として何をやるべきかと考えたわけです。そして・・、

 調べていくと、苗から育てて収穫までの期間が短く、地元館山の農閑期にあたる時期に収穫ができる「イチジク」を知りました。
 南房総は、1月から5月はイチゴがあり、4月から6月はビワが有名ですが、それらが終わると産地化されたフルーツがあまりなく、イチジクは8月から11月まで収穫ができ、11月頃から始まるミカンまでを繋ぐことができます。(農業は生き方ですより)

 彼は、地域にあてはまる農業の形について最初から意識しています。その後、3年間かかり中心となる畑を見つけ、イチジク狩り農園を開始しました。チラシを印刷して地域60か所のホテルや観光案内所に配布し、地域のイチジク生産者に呼びかけてイチジク組合も組織化。自身でスイーツショップをつくり、地域の農業者や新規参入者とコラボして新しい製品づくりに励んでいます。

 新規参入者の場合、持つものは何もないという状況なので、アイデアに制約はありませんが、実際にこれを実現していくことは困難な部分がとても多いでしょう。

 次に、古くからの農村での試みとして、木更津市のブルーベリーについて紹介したいと思います。

 木更津市の富来田地区は古くからのナシの産地でしたが、高齢化により産地の維持が難しくなっていました。30数年前、当時の農協組合長が、ビニールハウスを利用したブルーベリー栽培を提案し、高齢者中心に地域に広く普及しました。そのとき、農協の営農指導員として活躍されていたEさんですが、50歳で農協を退職されて、自らのブルーベリー農園を立ち上げました。そのころは、以前普及したブルーベリー栽培は勢いがなくなっていましたが、ここで彼は今までの地域の歴史を踏まえながら、「観光ブリーベリー」を定着させて、東京からの観光客を呼び込もうと考えました。地域の農業者、他産業従事者、NPO法人などに広く呼びかけたところ、これに応じる方がでてきて、地域としてブルーベリーの観光栽培に挑戦することになったのです。

 私たちの会の名称は、「木更津市観光ブルーベリー園協議会」と実に長い。これは会の目的をはっきりさせるためである。木更津市を日本一のブルーベリー産地にしよう。自然豊かなブルーベリー園で日本一美味しいブルーベリーの摘み取り体験をしていただこう。そんな会員の思いが集まって、2007(平成19)年10月に発足した。(農業は生き方ですより)

 Eさんは、自身の経営を今までの財産であった地域のブルーベリー栽培を足場にし、さらに彼が自身で探究開発してきた「どこんじょう栽培」をもとに栽培を普及し、「木更津市に似合った地域の絵」を実現したのです。

 冬の朝、ブルーベリーの苗畑は一面真っ白になる。ポットに植えられた苗木はカチンカチンに凍っている。日中は溶けるが夜にはまた凍る。この繰り返し。かわいそうだと思うが、ブルーベリーは枯れない。夏の日中はもっと過酷で、真夏日が続いていても一日1時間程度のかん水しかしないため、苗畑はカラカラに乾いているはずなのに、苗木はしおれても枯れることはない。ブルーベリーは本来、放っておいても枯れない強い植物なのである(江澤貞雄著 ブルーベリーをつかいこなすより)

 さて、以前農業後継者が激減したころ、「農業者はもっと減ったほうがいい」という議論があり、減った分を大規模化、機械化により解決すべきだという方向に、我が国の農業は舵を切ってきました。しかしそれでも、農家において農業を継ぐ人は一時に比べて減ってきているという印象はありません。これは、就農する後継者が今後地域の中ではどんな農業が必要なのか、どうすれば伸びていくかを考え、「親から就農するように言われる」のではなく、自ら選択してきた結果だと思います。

 そうはいっても、特に水田を中心とする地域では担い手の高齢化による減少は避けることができません。袖ケ浦市のKさんは、農業を継いでいくにあたって、産業用無人ヘリコプターによる地域の水稲防除作業を受託することからスタートしました。この受託作業は、その後水田作業全般に広がり、本格的に参入することになります。周辺地域では営農組合を中心とした水田作業が進められていましたが、Kさんの参入は、非常に重要な担い手の確保につながりました。
 続いてKさんは加工用レタスの契約栽培を農協に働きかけて開始しました。レタスそのものは、袖ケ浦市で産地化されていた重要野菜でしたが、彼の提案はこれに命を与えました。今では、袖ケ浦市のレタスは従来の高品質生産から省力化による大規模経営へと変化してきています。

 Kさんの場合は、必ずしも就農当初からビジョンが明確だったわけではありませんが、一つ一つステップを踏み、地域に足場をつくりながらビジョンを明らかにし、現在では地域でなくてはならない経営として存在感が大きくなっています。

 農業を一経営だけで伸ばしていこうとしても、決してうまくいかないと私は思います。自分の経営を「地域」という大きな財産と上手に調和させる中に、伸びていく秘訣があるのではないでしょうか。