漣(さざなみ)農業日記

農業によせるさざなみから自分を考える

今押し寄せる波は、さざなみなのだろうか、荒波なのだろうか。

開拓者 大熊からきた関本さん

 たまたま3月7日の朝日新聞夕刊を見て、本当にびっくりしました。それは福島県大熊町で100年続いた梨農家の若き5代目の関本元樹さんについての記事でした。
「なんか似たような内容だな」と感じました。読み進むうちに、「あれ、これはあの関本さんのことだな」と思いました。
 「農業は生き方です」で「開拓者 大熊町から香取市へやってきました」の記事を書いていただいた関本信行さん。元樹さんのおとうさんの信行さんが、なんと2017年8月になくなっていたということが書かれていました。もう、びっくり。記事をいただいたのは、前年の2016年9月、ミニコミ誌「漣(さざなみ)」です。亡くなられたこと、まったく存じ上げませんでした。

 この記事において関本さんは、2011年3月11日の大震災、続けて起きた原発事故にあった数日間について、とても緊迫した筆致で描いておられます。抜粋します。

  • 大きく揺れたとき、我々夫婦は梨畑で剪定した枝を棚の針金に固定する「誘引作業」していました。その大きさと長さに驚かされました。
  • 下校途中だった長女が無事に帰宅していて、長男と次女は小学校で保護されていたため、全員ケガもなく無事でした。妻がボイラー内の水をバケツに確保し、私はワゴン車の燃料を満タンにしたり、灯油ストーブを用意しました。
  • 一番新しく大丈夫そうな直売所で家族5人で眠りました。この日の星空が、記憶の中では今まで見た中でいちばんきれいでした。
  • 翌朝防災無線で、「第一原発一号機建屋のベントをするため、町民の皆さんは、念のために10キロメートル以上離れたところに避難してください」の放送があり、「とりあえず避難」ということでしたので、着の身着のまま公民館へ。昼頃一時帰宅、前日出かけていた父も帰宅し、防寒対策をして家族全員で再び公民館へ。自衛隊のトラックで町を出ました。
  • なかなか避難所が決まらず、午後7時にようやく避難所である体育館に到着。翌日になると、友人たちから続々連絡が入り、友人を頼って大熊町から西へ140キロの只見町へ避難しました。
  • 3月下旬、避難先での生活が始まり夫婦も新たな勤め先に就職しましたが、農業の面白さが忘れられず、翌年11月に退職して新たにナシ栽培する農地を探し始めました。

 その後、農林水産省農業者大学校の後輩である香取市の「和郷園」の木内さんの世話で香取市に適当なナシ園が見つかり、新たにナシ経営を再開したということです。

 ここまで書いてきて、関本さんと初めてお会いした時のことを思い出しました。原稿を依頼するため、栗源の「べにこまちの里」近くの農園におじゃましましたが、不在で、電話で連絡を取ったところ、息子さんが高校で野球をしていて、それを応援しにきているので、成田市の「ナスパ」という球場まで来てくれということでした。急ぎ、そちらに赴きお願いしましたが、今考えるとそのお子さんが、新聞に掲載されていた元樹さんだったのですね。

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